こんにちは。『認知機能の見える化』研究所 森保&活太郎です。

3月も、今週で終わりです。
の開花だよりもあちこちから聞こえてきますね。

花を見上げるのは、気持ちいいですねぇ。

外出に良い季節。
お散歩、お花見、気分転換、お買い物♪
卒業祝いに、入学祝いに、就職祝い。
外出の目的は様々ですねぇ。

さて、今日は人間の外出目的について考えてみたいと思います。
「人間の」と大きく言いましたが、ひとまず「現代日本人の…」で、考えていきましょう。

 

■その前に認知症の人と『徘徊』についての話

認知症になるとどうなるか、認知症で心配なのはなにか?
そうたずねると、おおよそ次の答えが上がります。

  • 火の元が心配、キッチンのガスとかストーブとか。
  • 車の運転が心配、事故のニュースも聞くし。
  • お金の管理が心配、通帳やお財布無くしたり、詐欺にあいやすいかも。
  • 行方不明が心配、ふらっと外に出て、それで事故に遭ったり起こしたら大変。

などなど・・・。

今日はこの中の「行方不明が心配、ふらっと外に出て…」に注目です。

認知症の人の、外に出て歩き回る行為はこれまで『徘徊』と呼んでいました。
しかし、数年前から認知症の人の外歩きは『徘徊』ではない、という認識が広がっています。

先日、朝日新聞でもそのことが取り上げられていました。

「徘徊」使いません 当事者の声踏まえ、見直しの動き
朝日新聞DIGITAL 2018年3月24日21時39分
https://www.asahi.com/articles/ASL3N6H64L3NULZU015.html

この中で、

朝日新聞は今後の記事で、認知症の人の行動を表す際に「徘徊(はいかい)」の言葉を原則として使わず、「外出中に道に迷う」などと表現することにします。

と書かれています。

各地の市町村の取り組みや、啓発活動の名称も「徘徊」を使わないということになってきています。

 

■そもそも『徘徊』の意味は?

徘徊という言葉を調べてみました。

[名](スル)あてもなく、うろうろと歩きまわること。「街中を徘徊する」

出典:デジタル大辞泉(小学館)

ポイントは「あてもなく」です。

 

例文の「街中を徘徊する」は、わかりやすく言うと、「街中をあてもなくうろうろと歩きまわる」という意味になりますね。

あなたは、あてもなく歩き回ったことはありますか??
歌の歌詞には、「あてもなく 歩き~♪」などと出てくることがあるように思いますが・・・

何故歩くのか?「道があるから歩くのだ」??

 

■現代日本人の外出する目的を考える

では、私たちはどんなときに、外出をするのでしょう?

私が思いつく限り挙げてみます。

花見、散歩、買い物、犬の散歩、体力づくりのウォーキング、ジョギング、フィットネスに行く、人の家を訪問する、山へドライブ、川へ洗濯、森へキノコ狩り、海へ魚釣り、丘へピクニック、牧場へソフトクリームを食べに、外食、パーティ、冠婚葬祭、孫に会いに、親に会いに、恩師に会いに、学校、仕事、ボランティア活動、習い事・・・

どれも、立派な目的のある外出です。

では、一見、あてもなくさまよっていそうな外出について考えてみます。

・嫌なことがあって、いらいらして歩き回る ⇒ストレス発散 など?
・悲しいことがあって、涙のなかで外出する ⇒癒し、気を紛らわす など?
・怒られて、家を飛び出す ⇒現実逃避、悔しい悲しい気持ちを紛らわす、反抗を意思表明する など?

どれも、単に外出してふらふらしているわけではなさそうです。
やはり、外出するに至る、何らかのきっかけや、決断や、意思があるといえるでしょう。

■認知症の人の外出

では、認知症の人の場合、どうでしょうか。

認知症になると記憶や見当識の違いから、「客観的には間違えている」場合があります。

  • ここは自分の家ではない ←ここが家だよ?先月息子の家で住むことになったじゃない。
  • 幼い息子が帰ってこないから探しに行かなきゃ ←息子はもう50歳だよ?仕事にいっているよ
  • 仕事に行かねばならん ←もう20年前に定年したじゃない。

または、

  • 買い物に行った帰り道、慣れたルートを見失った 
  • 出かけたけど、どこに何をしに行こうとしていたか、忘れた

など。

横で見ていると、
「いやいや、家はここでしょ!」とか、
「息子はもう50歳、今は仕事に行ってるでしょ」とか、
そんな『正解』を伝えて理解を得ようとするかもしれません。

しかし、本人の中では、そこは自分の家ではなく他人の家にお邪魔していると認識されていたり、我が子がまだ幼いという認識だったりするわけです。

事実は、その人の心と頭の中にあるわけですね。

認知症があろうがなかろうが、今自分が揺らぎなく信じていることが、完全に違うなんて、そう簡単に信用はできません。

想像してみてください。

あなたの家で『ここはあなたの家ではないので、帰ってください』と、言われる・・・とか。

見たこともない人が、家族の食卓に何故か混じり、平然と『お母さん、さすがハンバーグはやっぱり世界一の腕前だね』とか言いながら食べていたら・・・とか。

どう思うでしょう?

「なんか違う気がするけど、ここは人の家か、そりゃ失礼しました。ではさようなら」とか、
「見たことない気がする顔だけど、この様子だと、私の子どもの1人だったかな、そうかそうか」とか、そんなふうに思えますか?

人の記憶や認識による確信は、ちょっとやそっとでは変わりません。変えられませんよねぇ。自分の中にこそ、自分の事実があるのです。

認知症になると、脳機能の低下により記憶や見当識が実際の現実とは異なってしまう場合がありますが、本人の中ではそれこそが事実です。

だから、自分の家や、帰らぬ我が子を探しに行ってしまうのです。

また、認知症になり、方向感覚や道順をたどる機能が低下すると、通り慣れた道でも迷ってしまうこともあります。
キョロキョロと、また同じ通りをフラフラと歩いているように見えても、自宅や目的地を探して歩いているわけです。

いずれにしても、目的地や目的があるので、徘徊ではありません。だから、徘徊とは呼べません。

何と呼べばいいのか?

そのままで、いいのではないでしょうか?
実例で耳にするのは「散歩」「外出」など、ごく当たり前の言葉です。

 

■その目的が何であるかを知ろうとすること

認知症があろうと、なかろうと、外出するときは、たいてい何らかの目的があるものです。
その目的を、他人がわかるか、わからないか、理解できるかどうかは、それぞれかもしれません。

しかし、『徘徊』と言ってしまうと、なにも考えず、なにもわからず、ふらふらしているように思えてしまいます。良い意味で使われる言葉でもないです。

お互いの行動や考え方を認め合ったり、理解しようとすることは、お互いに尊重し、尊重されるためには、大切で、必要なことです。

『徘徊』と決めつけてしまうと、そこに潜むその人の思いや、状況が、見えなくなってしまいます。それは、認知症の人に対してだけでなく、子どもや、若者、壮年期・・・さまざまな、ライフサイクルにおいて、必要な時にはその人の思いを汲み支えることが、大切ではないでしょうか。

理解する。知る。

■おまけ

春らしく、遠くにみえる六甲山系は霞んでいます。

見渡す限り、いいお天気。

春なので、主任研究員がお小遣いで、かわいいシールを買ってくれました。
お耳に飾ってみました。

なぜに、一枚だけ?

普通、四つ葉か、せめて三つ葉に貼るのでは??なぜに、一枚?

 

よーく見ると、の、、、のうみそ??

これ、シロツメクサの花らしいけれど、スタッフYさんには、『え?脳みそ??』と驚かれました。

ナンデヤネン!

これは、シロツメクサの花です。よーく見てみて、耳のカバー!!

 

春爛漫な楽しい社内です。

 

 

※「脳活バランサー」は株式会社トータルブレインケアの登録商標です。
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※登場する活太郎はロボホンです。「ロボホン」は、シャープ株式会社の商標または登録商標です。